一橋大学の歴史
【1】一橋大学の設立は『るろうに剣心の時代』
1875年。時代でいえば『るろうに剣心』の時代です。そう、人斬り抜刀斎が緋村剣心として新たな新しい時代の生き方を「おろ?」って言いながら模索していた頃、世界の中の日本も「新たな日本」を模索していました。
1870年代といえば…、欧米では第2次産業革命が起きています。イギリスは既に世界へ進出は開始、スエズ運河を買収(1875)し、インドを植民地化(1877)していますが、ドイツではビスマルクのドイツ帝国が誕生(1871)、フランスでもティエールらが第三共和政を樹立(1870)して新たな体制が成立、…と世界進出への準備が整った頃です。80年代に入ると欧米による怒涛の世界分割が進められていきます。アジアでは、中国清朝では洋務運動が失敗でさらなる深みにハマり、80年代には清仏戦争・日清戦争に敗北、90年代には分割が進み亡国の危機を迎えていきます。同様にアジア各国も次々と欧米の勢力圏へと組み込まれていきます。
欧米とアジアの力の差は歴然としていました。
一方で、日本は80年代というきたる侵略の嵐を前に、欧米に追いつかんと改革(明治維新)を行っている頃でした。これは五箇条の御誓文(1868)を理念とし、大日本帝国憲法の発布と大日本帝国議会の設置を中心に、自由民権運動(標語「富国強兵」「殖産興業」)へとつながる一連の改革です。御誓文に「旧来ノ陋習ヲ破リ」とあるように、古い体制が崩れ、新しい体制が創られます。「時代を創るのは“刀”ではなくそれを扱う“人”でござる!」ということで廃刀令も敢行され、武士は消えてゆき、その中で新風連・秋月・萩の乱も起こります。いわば生みの陣痛の時代ですね。
どちらも一橋の世界史・日本史で頻出の時代ですねぇ…。こうした激動の時代の中で、創設者である森有礼が登場し、一橋大学の前進である商法講習所がつくられていきます。
【2】一橋大学創設者 森有礼の生涯
欧米による世界分割の波が押し寄せる中、日本はその波にのまれまいと改革を展開していました(明治維新)。多くの若者が海外へとわたり、欧米の先進的な政治・経済・社会・文化を吸収し、それを国内の改革に活かしていったのです。
一橋大学の創設者 森有礼もその1人でした。
森は18歳でイギリスに、20歳でアメリカに留学します。そして23歳の時には岩倉具視によって初代駐米外交官に任命されます。23歳の若者が1国の未来を背負ってアメリカに渡ったのです。
森はアメリカで教育関係者に会うことが多く「一国の独立の基礎は教育にあり、新しい国家の形成には教育改革が必要」という信念に至ります。この頃から森はアメリカの教科書を収集し始め、独自の教育論を世に発信し始めます。なかには「日本語廃止論(日本の公用語を英語にすべきことを説く)」などのなかなか過激な主張も含まれていました。
帰国後は学術結社「明六社」を福澤諭吉・西周らと立ち上げ、次々と先進的な論を発表していきます。さらに森は、福澤らの協力も得て私塾である「商法講習所(現在の一橋大学)」を設立しています。福澤が執筆した趣意書にはこうあります。「剣をもって戦う時代には剣術を学ばなければ戦場に向かうことはできない。商売をもって戦う世には商法を研究しなければ外国人に敵対することはできない。」
日本最初の内閣である伊藤内閣が成立すると、森は初代文部大臣に就任し、次の黒田内閣でも留任。日本の教育制度の確立に奔走します。義務教育制度の導入は森の功績の1つです。
1889年、森有礼38歳。明治維新の中心である大日本帝国憲法が発布され、翌年には帝国議会が発足した。しかし…、残念ながら森は日本の新しい政治の始まりを見ることはできなかった。
【3】明治時代を駆け抜けた森有礼の想い
急進的な洋化主義者の森は敵も多く、しばしば「明六の幽霊(有礼)」と揶揄されました。廃刀令を進言したのも森、義務教育制度も森ですから、古い階級や教育組織からは憎悪の対象だったのです。
そんな折、伊勢神宮不敬事件が起こります。
伊勢神宮参拝の際、「ある大臣」が社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗いたと新聞が報じます。洋化主義者であった森はその「ある大臣」として疑われてしまうのです(真相は不明)。
1889年、森有礼38歳。大日本帝国憲法発布の日。森は国粋主義者の西野文(23歳)に出刃包丁で刺されます。憲法発布の式典を終えて駆けつけた黒田首相は、森に「安心せい、憲法発布は無事終了したぞ!」と大声で呼びかけると、森は安らかな顔に変わり微笑をたたえて頷いたと言われています。
森も西野も、「日本のために」であったことを思うと残念ですね。
森の理念は今でも一橋大学に生き続けます。一橋の特色の1つに「国際色ある教育」というのが挙げられます。具体的には500名を超える留学生、グローバルリーダー育成海外留学制度の導入、国際企業戦略研究科の設置などにそれが示されています。
森が置かれていた時代状況は、今の我々が置かれている時代状況と一致するのではないでしょうか。海外に目を向け、日本の変革に命をかけた森有礼。一橋の学生は今こそその遺志を継ぐべきではないかと思います。
【4】申酉事件 一橋大学は反東大??
1908年、一橋大学は危機に見舞われていた。文部省は、東京大学(当時の東京帝国大学法科大学)に経済・商業2学科を新設することを決定、それはすなわち東大に一橋大学(当時の東京等商業学校)が吸収されることを意味していた(申酉事件)。
これに対して、卒業生・教授・学生らは猛反発した。一橋大学は事実上東京府の管轄であったが、そもそも森有礼の私塾として設立されたものである。一橋大学の遺伝子には「東大とは違う」という意識があった。
佐野善作ら4教授は辞表を提出、学生側でも緒方竹虎・武井大助らを中心に総退学が決議され、事態は紛糾した。緒方はのちに吉田内閣(同じく一橋大学出身)の内閣官房長官として、武井は安田銀行(現在のみずほ銀行)や文化放送の社長として活躍する人物である。1909年5月11日、2人を中心とした学生らは、正門前で万歳を唱え、帽章を外して母校を去った。その日の午後には有名な「校を去るの辞」が朗読された。執筆した武井はこの時大学3年生である。
調停に乗り出したのは、かの渋沢栄一であった。その結果、一橋消滅の危機は回避されて存続が決定、大学昇格へと道が開かれた。現在、渋沢の像は一橋大学附属図書館に置かれている。
この事件により、一橋の「反官学・反東大」の気風は確立された。また、これを機に、一橋大学の卒業生を中心に、政府・文部省の帝大中心主義から防衛しなければいけない、という意識が生まれ、後援組織の「如水会」が生まれた。一橋の特色でもある「卒業生と在学生の結びつきが強い」という伝統の端緒となったのである。
一橋会 Kuniharu
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